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藤田敦史の学歴・経歴・成績!幼少期は運動が苦手で中学で開花!

第99回箱根駅伝で総合優勝し、大学駅伝3冠を達成した駒澤大学。

27年間監督をされてきた大八木監督は、2023年3月限りでので退くことを発表されました。

次期監督は藤田敦史ヘッドコーチが務めます。

藤田敦史次期監督は、取材で、前人未到2年連続3冠への熱い思いを語っています。

藤田敦史次期監督の学歴・経歴やご本人が駅伝を始めたきっかけも気になります。

この記事では

  • 藤田敦史次期監督の学歴
  • 藤田敦史次期監督が駅伝(陸上)を始めたきっかけ
  • 藤田敦史次期監督の成績・経歴

についてまとめています。

藤田敦史次期監督の学歴

藤田敦史次期監督は、駒澤大学の駅伝選手として、大八木監督の元、大活躍されていた選手です。

名前 藤田敦史
生年月日 1976年11月6日
年齢 46歳(2023/1現在)
出身地 福島県白河市
身長・体重 166cm・52kg
出身高校 清陵情報高等学校
出身大学 駒澤大学経営学部
就職 富士通

藤田敦史次期監督の学歴は以下の通りです。

学歴/出身高校:清陵情報高等学校

清陵情報高等学校は、福島県須賀川市滑川にある男女共学の公立高等学校(偏差値50)です。

福島県白河市出身の藤田敦史次期監督は、地元の白河市から約20kmも離れた高校に通われていたんですね。

いづれも東北本線沿いにありますが、駅までは距離があったようで、

家から自転車で最寄りの駅に向かい、電車に乗り、学校の最寄り駅からまた自転車という生活を送っていたそうです。

藤田敦史さんが、この高校に決めたのは

ある程度学力も高くて、陸上も強い高校を探していたから

です。

後述しますが、中学で陸上に目覚めた藤田敦史さんは、高校で陸上をやってみたいという強い思いを抱きます。

地元の進学校に進むことを望んでいたご両親は反対しましたが、藤田敦史さんは固い決意でこの高校への進学を決めています。

進学校に行ってほしかった両親からは「送り迎えはしないぞ」と言われていたので、頼れなかったそうで、自転車と電車を使っての通学も頑張ってこられたようです。

 

学歴/出身大学:駒澤大学経営学部

高校時代に駒澤大のヘッドコーチだった高岡公さんにスカウトされ、駒澤大学に進学します。

しかし、高校3年生の時に貧血が原因で全く走れなくなったこともあったのでしょう、

箱根駅伝へのあこがれはあったが、「必ず箱根を走る選手になる」という気持ちはそんなになかったといいます。

「なれるとも思ってなかったです。大学に行って力試しをしたい、という気持ちのほうが大きかった。当時は陸上への自信はなかったですね」

と語っていました。

藤田敦史次期監督が駅伝(陸上)を始めたきっかけ

藤田敦史次期監督が駅伝(陸上)を始めたきっかけは、いつ頃、どんな出来事があったのでしょうか。

小学校時代は意外と運動が苦手

バリバリ活躍されてきた藤田敦史次期監督ですが、意外にも小学校のときは、とにかくスポーツ全般が苦手だったそうなんです。

運動会で走っても女子より遅い、球技もできない。スポーツは好きじゃない。

小学校の卒業文集に書く将来の夢は、サラリーマン。

いい高校、いい大学、いい会社に入ること

それしか考えていなかったと過去の取材で語っています。

今の姿からは想像できませんね。

運動もできないから、スポーツ選手なんて考えたこともないし。それぐらい現実を見る子だったとも振り返っています。

 

転機は中学2年生

中学時代は、テニス部に所属

しかもその理由は、

「部活をやってた方が高校受験の内申点で有利だから」「一つ上のいとこのお姉さんがテニス部に入ってたから」

だったとか。

スポーツ大好きだったら、この部活に絶対入りたい!と思うでしょうが、ほとんどは藤田さんと同じように考えるのではないでしょうか。

テニスはあまり上手じゃなかったそうですよ。

しかし、中学2年で転機が訪れます

お前は短距離は遅いけど、長距離はもしかしたら向いてるんじゃないか

この言葉は、中学の体育の先生の言葉です。

校内のマラソン大会で、「すごく嫌だけど、自分なりに頑張ってみよう」と走ってみたら、上位に入れた藤田さん。

それを見ていた体育の先生の一言でした。この言葉はずっと、藤田さんの胸に残ったそうです。

区間賞をとって陸上にハマる

中学校には陸上部はなかったそうですが、

駅伝シーズンになると、各運動部から寄せ集めた面々で郡市対抗駅伝の練習が始まり、そのメンバーとして体育の先生から声がかかった藤田敦史さん。

最初はしぶしぶ参加

走ってみたらだんだん面白くなってきた!

3年生で駅伝メンバーに選出

初めて出た駅伝で、強い子もいる区間だったのに区間賞をとっちゃった!!

これをきっかけに陸上の世界にはまった藤田敦史さん。高校で陸上をやってみたいと思うようになったそうですよ。

 

清陵情報高等学校の陸上部に所属

上述しましたが、藤田敦史さんは清陵情報高等学校出身です。

清陵情報高等学校に入学されてから、勉強も陸上も両立しようと頑張りましたが、

陸上の基礎がまったくできていなかったため、練習についていけなかったそうです。

練習で疲れて勉強もおろそかになり、陸上も勉強もダメという悪循環に。

ご両親には「だから言っただろ」と、厳しい言葉をぶつけられたこともあったそうです。

当時、藤田敦史さんは

「親からそう言われたときは、言われたことが悔しいんじゃなくて、自分で『やる』と言ったのに弱音を吐いてる自分自身に嫌気がさしたんです。言われて当然だなって。負けそうになってる自分が嫌でした」

と語っています。

ここで投げ出したり誰かのせいにするのではなくて、自分のこととして捉えられた藤田敦史さん。

こういう精神の持ち主だからこそ、ここまで成果をあげことができるんですね。

藤田敦史次期監督の成績・経歴

中学からの成績・経歴をまとめていきます。

成績:中学時代

中学3年生で駅伝メンバーに選出:区間賞

成績:高校時代

高校2年生で市町村対抗の「ふくしま駅伝」1区:区間賞

インターハイに出ている3年生を抑えての区間賞で、かなり注目されたそうです。

一躍注目され、大学や実業団のスカウトが見に来るようになったそうです。

しかし、3年生で貧血により全く走れなくなるという状況に陥ってしまい、スカウトも徐々に引いていったそうです。

この時はとっても不安だったでしょうね。

駒澤大のヘッドコーチだった高岡公さんとカネボウの監督を務めていた伊藤国光さんは足繁く通ってくれたそうです。

実業団でやっていく自信がなかった藤田敦史さんは、駒澤大学への進学を決めます。

成績:大学時代

駒澤大学で出会ったのが、藤田敦史の入学と同時にコーチに就任した大八木監督です。

大八木コーチは藤田さんの走りをひと目見て、「すぐに病院に行ってこい」と声をかけたそうです。一目で貧血と分かったんですね。すごい!

大八木コーチもかつて貧血で悩んでいたことがあったそうなんです。

大八木コーチの就任と同時に、妻の京子さんが寮で食事を作ってくれるようになり、貧血持ちの藤田さんにはレバーやきくらげなど、鉄分を多く含む食材を追加してくれたんだとか。

ご両親もご本人も安心したでしょうね。

学年 大会・記録会 成績
1年 夏合宿後 最初の記録会5000m 自己ベスト:学年でトップに
記録会10000m 29分台後半
記録会10000m 29分20秒台
1年 箱根駅伝 1区 2位(トップと6秒差)
2年 記録会10000m 28分台
2年 箱根駅伝 2区 7位
3年 関東インカレ2部ハーフマラソン 初優勝
3年 箱根駅伝 2区 2位
4年 箱根駅伝 4区 1時間0分56秒で区間記録を更新
40kmマラソン 2時間10分7秒の日本勢トップ

藤田敦史さんは、箱根駅伝で花の2区を任されてきました。

4年生の時には、貧血の症状が出てきてしまい、この時は4区を走ることを選択したと言います。

駒澤大学は総合2位の成績を収めました。

経歴・成績:富士通へ就職

駒澤大学卒業後は富士通へ入社します。

2000年のニューイヤー駅伝で初優勝を果たしますが、急ピッチで仕上げた代償として、疲労骨折をしてしまいます。

結局このあと、シドニーの代表選考レースには出ることができませんでした。

3度目のマラソンとなった2000年の福岡国際マラソンでは、

シドニー金メダリストのゲザハン・アベラ(エチオピア)と競り合い、初優勝を果たしました。

タイムは2時間6分51秒で、日本新記録。このとき藤田さんは、日本最速の男になったのです!

経歴:引退後

引退後は富士通のコーチを務めていた藤田さん。

しかし2015年に大八木弘明監督の要請もあって母校の駒澤大陸上部のヘッドコーチに就任しました。

自分がエリートではなかったことや、けがをした経験などは、実業団選手よりは学生を相手にしたほうが生かせるだろうとも考えたそうです。

選手に寄り添える藤田敦史次期監督。

今後の駒澤大学陸上部の躍進も楽しみですね!

まとめ

今回は、駒澤大学陸上部の次期監督藤田敦史さんの学歴・経歴・陸上を始めたきっかけについてまとめてきました。

元々運動が得意ではなかった藤田敦史さんが、中学2年生の校内マラソンをきっかけに陸上に目覚め躍進を続けてきました。

もともとのスタートが「運動苦手」「運動音痴」だったという藤田さんの頭の中には常に「ちょっとでも練習を休んだら、あの時の自分に戻ってしまう」という気持ちがあったといいます。

また、「それがあったから、競技を長く続けられたんだと思います。絶対に油断しなかった」とも。

自己の経験を生かし、駒澤大学の選手のために大きな大きな力になってくれることを期待しています。